008
マイディア・ミキサー
小川 瑛子
一九九八年五月二八日の朝七時、玄関のチャイムが激しく鳴った。驚いてドアを開けた私の前に顔をゆがめた夫がいた。
「やってしまった。左下顎の骨がおかしい」
と、夫は青い顔で呻いている。
大型犬のラブラドルレトリバー「アトム」の散歩に夫はバイクで出かけたのだった。近所の突きあたりの道を右へ曲がろうとした時リードがハンドルにからまり転倒したという。唇から出血もしている。
私の体が震え、どもって「は、はやく受診しないと」と、主(あるじ)を気遣う不安気なアトムを受け取った。
歯科口腔外科でレントゲンをとると「左下顎関節粉砕骨折です」と、恐ろしげな病名を告げられた。
「三週間の入院」と言われ、顎間固定をする事になった。
「下の顎と上の顎を固定してしまうの? それじゃ口が開かないんじゃないの?」私の不安は募る一方だ。
私は廊下で待っていたが、なかなか夫はでてこない。小一時間ほどして現れた夫は、口元をモゴモゴさせて、鬱陶(うっとう)しそうな顔をしている。2cm程上下の唇を開けて見せた。
上の歯全体を歯列矯正の様に、細い針金一本で押さえてある。下の歯も同様にしてあり針金には歯の数だけ小さなフックがついている。一本一本の歯の隙間にフックを差し込み上下のフックに極小輪ゴムをかけ、歯はがんじがらめになっていた。
私はぎょっとした。想像も出来ない光景だった。歯の隙間(すきま)から、かろうじて夫はだれた様な声を出した。
「流動食が当分続く」
夫をかわいそうに思ったが、当時評判の映画「007(ぜろぜろせぶん)」に出てくる銀歯だらけの巨体の悪党が浮かんだ。
入院は名ばかりで、処置が終わると開業医の夫は毎日、家の診察に帰ってきた。私は昼と夜の流動食作りをしなければならずミキサー一台だけでは対応出来なくて、もう一台買いに走った。風車(かざぐるま)の様に四枚のぎざぎざの黒い羽根が厚いガラスの筒の底で光っている精悍な新ミキサーだ。
「ネギトロが好きだから」マグロとネギと醤油とわさびとだしで一品。
「牛肉もとらなければ」味つけしたミンチにしょうがを入れて液状に。
二台のミキサーがガガーッと働き続け、その騒音はけたたましい。
夫は全てストローで吸って食べる。味けなかっただろう。
針金がはずされる日が来た。
「うまいなあ、歯をかみ合わせて食物を味わう幸せ」夫は笑顔で卵焼きをかんだ。
私は旧新の二台のミキサーに―ありがとう。君達あっての今日がある―と丁寧にふいた。
夫は今、スルメも噛み切れる程、丈夫な歯と顎を持っている。
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