001
二毛猫タケのご機嫌な一日
こづか まやこ
――おっ? 何だか今朝はずいぶん体が軽いぞ――と、タケは思った。昨日の夜、土蔵の隅に転がっていたネズミを食べてから、どうも具合が悪かったのだが、それが嘘のようだ。
寝床にしている古座布団の上で大きく一つ伸びをして、箪笥(たんす)の上に飛び乗ってみる。まるで、血気盛んな若い雄だった頃のように、優美でしなやかな身のこなしだった。白地に茶色の斑(ぶち)が散る毛皮さえ、昔の色つやを取り戻した気がする。
飾ってある日本人形の隣で、タケは自己満足に浸りながら、ひとしきり毛繕いをした。それから前足を揃えて座ると、部屋を見下ろした。タケの飼い主である千代は、まだ布団の中でぐっすり眠っている。
江戸に店を構えて木綿を商うこの東屋は、大店(おおだな)とまではいかぬまでも、そこそこの規模の中堅どころだ。一人娘の千代は、今年数えで十七になる。子猫の時に拾われて以来、タケはずっと、離れにある千代の部屋で、彼女と一緒に寝起きしていた。
――千代ちゃん、起きておくれよ。おいら、ちょいと外を見回りに行きてぇんだ――ニャア、の一声にその思いを込めて呼んでみたが、千代は目を覚ます気配がない。
障子と雨戸の向こうでは、すでに初夏の日射しが降り注いでいるらしく、賑やかなスズメたちの声がする。ウキウキした気分に誘われて、思わずタケはそちらの方へと首を伸ばした。
すると突然、タケの目に映る景色が、部屋の中から外の廊下へと、まるで帳(とばり)をめくりあげたように切り替わった。気がつくとタケは廊下に座って、目の前の雨戸を眺めていたのだ。
――あれれ? いつの間にここに来ちまったんだろう――振り返ると、障子は閉まったままだ。一体何が起きたのかと、タケは首をひねった。
江戸の町の朝は早い。通りにはすでに、天秤棒を担いで豆腐や蜆(しじみ)を売り歩く、振り売りの声が飛び交い始めていた。
「ほい、活きのいいアナゴ、今が旬だよ」
この屋敷に馴染みの魚屋の声も、母屋のお勝手の方から微かに聞こえてくる。タケはよくおこぼれをもらっているので、つい涎を垂らしそうになりながら、ああ、今すぐ外へ出たい、と思った。
すると、どうだろう。タケの体がすうっと雨戸を通り抜けたではないか。
――うわぁ! 何だ何だ? おいら、どうしちまったんだぃ……――
中庭に降り立ったタケはびっくりして、タワシのような短いシッポをまんまるに膨らませた。見ると、離れの雨戸はやっぱり閉まっている。
――妙なことになっちまったなぁ。でもまあ、自由に通り抜けできるってぇのは、便利じゃねぇか?――と、タケが思ったとき。
「あっ! ネコタマ様だ!」
「ホントだ、ネコタマ様!」
「こんなところに! 大変だ大変だ!」
濃桃色(こももいろ)の花をつけたツツジの陰から、三匹の猫が飛び出して来た。黒猫と茶トラと、灰縞の体に白い腹掛(はらか)けと白足袋(たび)を着けたような、サバトラの猫だ。どの猫も、まだ子猫と言っていいぐらいに若い。
「誰だぃお前たちは。この辺じゃ見かけねぇ顔だな。それに『ネコタマ』ってぇのはいったい、何のことだぃ?」
三匹の猫はタケの前にきちんと座り直した。
「『ネコタマ様』は猫の神様、正しくは『ネコタマ大明神様』とおっしゃいます」と黒猫。
「もちろん、あなた様のことです」
と茶トラ。
「あなた様は本日、めでたくも『ネコタマ大明神様』におなりあせあせ……あれ?」
サバトラが舌を噛み、首をかしげる。
「……おなりあそばしたのです」
と、黒猫が後を引き取った。
*
「大明神だってよぉ、ニャハハハ! そうか、おいらは神様になったのか!」
フカフカの絹座布団の上にふんぞり返り、タケは上機嫌だ。
三匹の猫はタケを、とあるお寺へと案内した。途中、町家(まちや)から漂って来る朝餉(あさげ)の匂いに釣られ、フラフラとあっちへ寄ったり、こっちに顔を突っ込んだりするタケを、なだめすかしながらの難儀な道行きだった。やっと到着した寺は古く、こぢんまりしていた。しかし密集した町人街からは少し外れた立地のためか、境内はそれなりに広い。本堂の裏側には、小さな社(やしろ)が建っていた。広さこそ畳半畳ほどだが、高い切妻造(きりづまづく)りの屋根といい、朱塗りの柱といい、なかなかどうして立派なお社(やしろ)だ。タケはその社(やしろ)の中へ導き入れられ、鎮座ましましたのだった。
社(やしろ)の前では、三匹の猫が「ヒメ」
と呼ぶ、大きな白猫が待っていた。落ち着きはらった物腰に、そこはかとなく貫禄を漂わせ、ヒメは厳かに言った。
「ようこそご降臨くださいました、ネコタマ様。我らは、あなた様の僕(しもべ)。さぁ、何なりと、お望みをおっしゃってくださいませ」
「おいらの望み? それは……鮪(まぐろ)だ!」
「……は?」
「だからぁ、鮪が喰いてぇんだよ。あっ鰹もいいなぁ、やっぱり江戸っ子ならこの季節、初鰹は欠かせねぇ! いつも端っこをチビッともらうだけだから、いっぺん、腹一杯喰ってみたかったんだ」
四半刻(しはんとき)後。高杯(たかつき)に山と盛られたご馳走を前にして、タケは大喜びだった。
「最近、千代ちゃんが旨いモノ喰わせてくんねぇんだよ。年寄りが食べて寝てばかりいると、越後屋のご隠居みたいに太り病(やまい)で死ぬ、とか言っちまってよう」
しゃべりながらも、タケは次々とご馳走を平らげていく。
――あれ? なんかこの社(やしろ)、急に狭くなったような……まぁいいか――と、思ってしばらくのこと。いつの間にかタケの体は大きく膨れ上がり、社(やしろ)の中にギッチリ詰まって、身動きもできなくなっていた。
「うっ! く、苦しい……」
小さな入り口から首だけを突き出したタケは、まるで自分が社(やしろ)型の甲羅を背負った亀になった気がした。
「おいっ、ど、ど、どうしちまったんだい、こりゃあ!?」
「ネコタマ様、それは気のせいです」
「……へ? 何言ってやがんでぃこのスットコドッコイ!」
タケは鼻先のヒメの顔に噛み付きそうな勢いで叫んだ。が、ヒメは慌てる様子もない。
「閉まっている扉や壁を自由に通り抜けられるあなた様が、そこから出られないはずがありません。あなた様は、先程のご自分の言葉に、暗示をかけられたのです」
「あんじぃ? そりゃいったい……」
そう言ううちに、タケの体はすうっと元の大きさに戻ってしまった。
「……うへぇ。何が何だかわかんねぇぞ。まさかお前(めぇ)ら、さっきのご馳走に、変なもんでも混ぜたんじゃあるめぇな」
ヒメは金色に光る目でじいっとタケを見つめ、そしてゆっくりと口を開いた。
「そろそろ刻限が迫って参りました。真実をお話し致しましょう」
――ネコタマとは猫の魂。死後一日だけ、み仏の慈悲により、何でも望みが叶えられる――そう聞いたタケは驚いた。とてもすぐには信じられない。しかし、続くヒメの言葉に、心が騒ぎ出した。
「千代というお方に、随分可愛がられていたのですね。心残りがあってはいけません。最後に一目、会っていかれてはいかがです?」
急いで家に帰ってみると、タケの体はすでに、中庭のツツジの横に埋められていた。千代と、千代の母親(おっかさん)が、二人して手を合わせている。母親(おっかさん)がポツリと言った。
「きっと、『石見銀山猫(いわみぎんざんねこ)いらず』で死んだネズミを、食べたんだよ。この頃歳を取って、ネズミを捕らなくなったと親父(おやじ)さんが言ったのを、気にしてたんじゃないかねぇ」
「……バカだね。別に何の役にも立たなくたって……側にいてくれるだけで良かったのに」
千代はグスンと鼻をすすり上げた。
「タケや。私は、お前がいてくれて楽しかったよ。ありがとう。ゆっくりお休みね」
涙の跡のある千代の顔を、タケは長い間見つめていた。やがて二人が家の中へ入って行くのを見送って、タケは言った。
「……うん。千代ちゃん、おいらも楽しかった。名残惜しいけど、呼ばれてるような気がするから、もう行くね」
そうして、タケの魂は、夕焼けの光が射す西の空へと昇って行った。
*
「やれやれ、無事に成仏したようだね」
三匹の猫から報告を聞き、ヒメは鼻から息を漏らしながらつぶやいた。
「全く。人間にも知恵がついて、歳取った猫が化けて猫又になると知られちまったおかげで、おちおち長生きも出来ないなんてね」
ヒメは自分のフサフサとした白いシッポを、丁寧に舌でなでつけた。普段は妖術で隠している、二股に別れたシッポだ。
「これ以上、猫を気味悪がる人間が増えちゃあかなわない。せいぜい猫の魂が悪さをしないよう、これからも見張っていなくっちゃ。ほら、お前たち。今度は、お武家屋敷の方を見回っておいで」
「へーい」
三匹の猫はそれぞれしっぽをピンと立て、お寺の境内を元気良く飛び出して行った。
学校法人 大阪デザイナー専門学校 |
こづか まやこ 1966年生まれ 公募やその他入選歴など さばえ近松文学賞佳作受賞。 書き続ける理由 口ではうまく言えない事がありすぎるから、かなぁ。 趣味 写真。自分で撮るのは主に花と風景。奈良の写真家、入江泰吉氏を崇拝しています。 大切にしている言葉 「ありがとう」 |
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