創るcollaboration 第一回コラボレーション企画
006

いつか見た青い空と
チョコレート

今村 とも子



「アーマ、ナットビーズ、ケット○×△△…」
 勝はうやうやしく頭を下げた。神棚には、アメリカ兵から貰ったチョコレートが一個、身を隠すように置かれていた。
 終戦から三年、京都の街中(まちなか)をジープが我が物顔(わがものがお)で走る。いつも土埃をかけられてばかりいないのが兄ちゃん。弟の勝と二人でタコ踊りして気を引かせると、アメリカ兵がバラバラとガムを投げた。やった。今日のおやつが出来た。
「ハーイ、マサール」
 勝の兄貴分でもあり、友人と言うべきか、アメリカ兵士のスミスだ。
「ハロハロ、スミス」
 勝が答えると、スミスの大きな手が、勝の小さな手を優しく包み込んだ。父親を知らない勝は、『父ちゃんの手は、こんなんやろな』と思った。
 二人はよく気が合う。スミスは一通り勝とじゃれ合うと、勝の家の二階へと上がって行った。母のうたは、スミスの女の連(つ)れ(友達)だと言うが……。大人の事情を知る由もない勝は、とにかく、自分を子供扱いしないこのアメリカ人が好きだ。
 父親のいない暮らしは、相当きつい時代だった。食べ盛りのこの兄弟達の頭の中は、いつも食べたい物が一杯だ。母親一人の働きでは、到底、満足にしてやれなかった。
 どん底でも生きてゆかねばならない。うたは『私の稼ぎが悪いからや。ごめんやで』と心の中で詫びていた。
 たった一つのお菓子で取っ組み合いになった。勝は母に
「兄ちゃんはずるい。別のポケットに、お菓子、隠してるんやで」
 顔を真っ赤にして訴えた。
「何かの見間違いや。それに、兄ちゃんは年上やから、たんと食べんとあかん」
 と言い、それ以上、言うなと怒った。
 神棚から一部始終を見ていたチョコレートは『おばさん、それはないよ。お兄ちゃんのシャツの下に饅頭あるで。えこひいきはダメ』と健気(けなげ)な勝に大声援を送った。勝の悔しさを耐えている様子を見ては涙を流し、声を嗄(か)らして応援した。
 この篤(あつ)い思いはすぐに天の神に届いた。
 チョコレートは神格を与えられ、勝を見守るように仰(おお)せつかった。まず三ヶ月間やってみることにした。名もチョコの神“チョゴット”と命名され、早速(さっそく)、腕試し。
「アーマ、ナットビーズ、ケット○×△△…」
唱える勝の声から心の中が読めた。
『甘納豆、ビスケット……何だ、これ。食べたい物の順番だったのか。○×△△…ん? 兄ちゃんに取られませんようにか。任せなよ、勝』
 柏手(かしわで)が鳴った。今度はうただった。
 神棚にあるのが神格を持ったチョコレートとは知らずに、胸の内を明かす。
「神様、あの兵隊が勝を欲しいと言います。是非是非と迫るし、生活も苦しいし、それも一つの方法かと思います」
 チョゴットは行き先がアメリカと聞き、すぐ賛成した。最近ホームシック気味で、急に里心がついた。神様としては見習い中の未熟さ故か。
 チョゴットの賛成の気持ちが働いたのと、うたは神棚に報告したことで心も軽くなり、勝にこんこんと諭(さと)した。
 数日後、お膳に並ぶごちそうを見て、兄ちゃんはただ事ではないとピーンときた。その上、弟の勝はさらっぴんの服を着ている。今日は祭りでも、正月でもないのに。
「ハーイ、マサール」
 玄関には大きな荷物を抱(かか)えたスミスが佇(たたず)んでいた。
「ヤンキー、ゴーホーム。ノーサンキュウ」
 泣き声とも叫び声ともとれる兄の声が、響き渡った。大柄なスミスは、ひょいと兄ちゃんをつまみ上げ、宥(なだ)める様(よう)に背中をトントン。
 チョゴットは手を握り締め、事の成り行きを見守っていたが、ここで人生のギアチェンジをした。この兄弟を切り離すのはあまりに酷(こく)だと判断したからだ。
 アメリカ行きはなくなった。そして、スミスは
「アメリカ、ゴーホームハ、ノーネ」
 ときっぱり言った。養子縁組はなくなったのだ。
 呆気(あっけ)にとられた勝家族を尻目に、スミスはそのまま次の任務地、朝鮮へと飛び立っていった。かのアメリカと朝鮮がきな臭くなり始めた頃の事である。

 一九七一年三月、遠くに三角頭のパビリンが見える。今日、夫と行くはずの万博だ。それが何故(なぜ)、病院に変われねばならないのかと、やるせない思いで美知子は窓を閉めた。
 昨夜から眠り続けている勝。一命は取り留めたが、医者は今夜が峠だと告げた。チョゴットが目を離した隙(すき)の交通事故だった。
 神となって三十年、一生懸命勝を守り続け、親子の危機も救った。勝自身の家族も増え、これからが人生、面白い処(ところ)なのに。不覚だった。
『勝の命を救うことができるのか?』今からでも間に合うかどうか、自信がない。神力の衰えをひしと感じる昨今だから。自分でも余力が定まっていないのが現状だ。が、せめて妻の美知子と言葉を交わさせてやりたい。テレパシーなら神でも初級クラスで、クリア出来そうだ。全身に力を込めて神力モードのスイッチを入れた。
 夢の中で勝は、兄ちゃんと球投げをしているが、その速い事。こぼれた球に追いつけず「待てー」と叫んだ。
 驚く美知子。寝ている夫の声が頭の中で響くではないか。
「思えば、はかない人生だった。行きたかったアメリカにも行けず、やっと兄ちゃんや母ちゃんとも離れて暮らせると思ったのも束の間(つかのま)。元の木阿弥(もくあみ)だ。スミスは俺に言ったんだ。アメリカで住もうって。赤い屋根の家には芝生があるんだ。休みの日には、近くの山へピクニックに行くんだ。約束していたのに……どこかへ行ってしまった」
 じっと聞き入っていたチョゴットは、目を白黒。ふうと溜息をつくと、『人間の心は計り知れないね』と独り言が出てしまった。良かれと思ってした行動が、本人の思いとは裏腹だっただなんて。
 まだ勝の話は続いた。
「今頃、スミスは生きていないと思う。そしたら天国で会えるに違いない」
「何を世迷い事、言ってるの! あなたには、“生き抜いてやろう”って気甲斐性(きがいしょう)は、失せてしまったの!」
 いつもの穏やかな美知子から想像もできない激しい口調だ。姿の見えない物体に引き込まれてなるものかと、声高に言い放った。
 そこへ勝の母、うたが駆けつけた。よほど慌てていたのだろう。エプロン姿に下駄ばきだ。
「わてや。勝、分かるか。お母ちゃんや。死んだらあかん! あんたには謝らなあかん事があるねん」
 気丈なうたが泣きじゃくり、ベッドに顔を伏せた。
「勝、あんたのお父ちゃんは、今も生きてるんやで」
 うたは、何の反応もない息子に話しかけた。『このまま事実を知らずに死んでゆくお前が可哀想や。勝に罪はない。悪いんは、あの男。あの大伯父(おおおじ)が家に来なければ、平穏に暮らしていたものを。あれから一変してしもた』
 大伯父とは姑の兄だ。うたの夫が出征し、男手のないのをよい事に、頻繁に出入りした。
 うたは『戦争や。戦争が悪いのや。戦争がなかったら、こんなに苛(さいな)まれる事はなかったのに』と戦争を恨んだ。
 その反面、大伯父を拒み切らない自分がいるのに気がついた。戦争や大伯父のせいにすれば、言い訳は立つが、自分に対し、嘘はつけなかった。周りの者は何の疑いもなく、勝はうた夫婦の子供と見たが、勝の大きな眼は大伯父にそっくりだ。うたは重い心で『決して誰にも言うまい』と思った。
 うたは胸の内を洗いざらい吐き出すと、心なしか安堵した。長年の胸のつかえが下りた。
 反論しない、今まさに事切れる相手だから話す気持ちになったうただ。若い日の過ちを勝に心から謝った。
 チョゴットのお蔭で、勝は母の本心が全て読み取れた。聞き捨てならない話に、勝の魂はもがいた。“このまま死んでなるものか”と、最後の力を振り絞ってもがいた。
 子供心に感じた兄ちゃんとの温度差は、こんな理由があったのか。自分は望まれて生まれたのではなかったのか。
「生きてやる、生き抜いてやるぞ!」
 今にも消えそうな勝の命の火が噴き返したではないか。メラメラと勢い良く、赤々と燃え始めた。勝の魂は、うたの告白が生きる原動力となり、再び動き始めたのだ。妻の美知子は、目の前で奇跡が起きたと大騒ぎ。
 チョゴットは、どうだと言わんばかりに咳払いする。久方振りの大仕事だ。
 この神の体も、若い頃に比べると半分もない。今回の件で、細い身体を増々すり減らしてしまった。昔の体を思えば、見る影もないほどだ。お守り袋に入り、神棚に大事に祀(まつ)られてはいるものの、元はと言えば、甘~いチョコレート。匂いを嗅ぎつけたネズミに齧られ、小さくなったご神体は神通力もそれなりにだ。かなりのエネルギーを消耗してしまった。これで最後になるかもしれない。チョゴットは、こんな日のために、妻の美知子に全てを託(たく)し、勝の人生の杖となる様(よう)、仕組んでおいた。

 午前六時、勝はいつもの様に目覚め、手足をグーと伸ばす。今日一日を思い描く。結婚して十年、毎日、同じ事の繰り返しだ。
 変わらない朝が来た。今朝は、まだ体に疲れが残っているのかだるくて重い。夕べ、靄(もや)の中を歩き回った気がした。出口を探すのに苦労した。夢を見たのだろうか。
もう一度、手足を伸ばし、
「アー、ウォー! あーっ、すっきりした」
 唸り声が家中に響いた。チョゴットの神通力が弱まったせいで、勝に記憶の一部が残ってしまった。が、母の告白は覚えていないようだ。
 美知子がただならぬ声に驚き、飛んで来た。
「どうしたの?」
 と聞くので、勝は、
「妙に大伯父(おおおじ)が気になって、大声で叫んでみたくなったんだ。知ってるだろう? お母ちゃんの姑の兄貴だよ」
「あぁ、あの人ね。一人で淋しくしているそうよ。義母(おかあ)さんがこの間、そう言っていたわ。聞いてもいないのに。あなたも気にするだなんて、偶然ね」
「へぇ~」
 気のない返事の勝に、美知子は弾んだ声で言った。
「さぁさぁ、用意はできているんですか? 早く行きましょう。早く行かないと、今日で万博も終わってしまいますよ」

今村とも子

今村 とも子

1948年まれ

書き続ける理由

子供の頃より作文は大の苦手。ところが『話すように書いて』みたら書けました。出来はともかく、65歳の今までを綴ってみると、これが面白い!
「10年やってりゃ何とか形になる」という松尾先生の言葉が、スローな私にぴったりです。当分楽しみます。

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