創るcollaboration 第一回コラボレーション企画
013

心象風景

橋本 都紀子



 知的でチャーミング、そんな美咲にある朝、未来予言の神がのりうつっていた。
 それは、予告も何の了解もなく漂う風のように、寝ている美咲の体に侵入してきたのであった。もちろん、そんなことになっているとは、美咲自身知るよしもなかった。
 八月のギラギラした太陽と共に目覚めた美咲は、何故かいつもの朝とは違う不思議な爽快感を覚え、何か違和感を感じた。
 ベッドに横たわりながら、「ああ、今日は日曜日なんだ」と、確認すると同時に、頭の中に一筋の風が吹き込んできた。そして、数時間後の美咲の行動が、まるでそこにいるように浮かんでくるのであった。
 今日は恋人の哲也と三時に会う約束だった。ここ二週間ほど哲也とは連絡を取っていなかった。お互い多忙な日々が続き、何となく、どことなく、歯車がひとつ欠けたような心の行き違いを、美咲はふっと感じることが気になっていた。
 ようやくベッドから離れ、一階に下りて行った。時間はまだ九時過ぎというのに、リビングには誰の姿もなく、猫のミーシャがテーブルの下で寝そべっていた。美咲は一人でゆっくり朝食をとりながら、さっきベッドで浮かんだ光景を思い出していた。何故かよそよそしい哲也の顔が見え隠れした。
 十ニ時を過ぎても、誰も帰ってこなかった。ふと、両親が黒い喪服で、お経を聞いているような様子が不思議と目に浮かんだ。法事かな? そんな気がした。
 日曜日の銀座は歩行者天国で、真夏の暑い通りを多くの人が行きかっていた。少し早目に家を出て買い物をした。案の定、哲也はニ十分も遅れて、髭もそらずに現れた。しばらく無言で歩いていたが、暑いので喫茶店に入った。
「此の頃忙しいの?」
 美咲は尋ねた。
「まあね、課長がはりきり親父でいやになるよ。嫌な奴なんだよね」
 ふてくされた顔で哲也は言いながら、そっぽを向いた。
「どこにでもいるよね、そんな人」と、言いながら美咲は居心地の悪さを感じて黙っていた。朝、ベッドの中で浮かんだ状況がまざまざと甦り、次の場面が浮かんできた。
「ちょっと、もう今日は帰るわ。気分が悪いんだよな」と、哲也は言って顔を背けた。
「あら、誰か別約でもあるの?」
 一瞬ぎょっとして美咲を見たが、すぐに
「まさか」と、否定し、哲也は「じゃ、また」と、喫茶店を出て行った。
 美咲は筋書き通りにことが運んだ驚きに、暫く席を立つことが出来なかった。
 家に帰ると、すでに両親は帰っていた。
「今日は伯父さんの法事だったの?」
「あら、どうして知ってるの? 美咲には何も言ってないのに」と、母は驚いて美咲を見つめた。
 そんなことが何回か続いているうちに、美咲自身も、どうも自分には予知能力があるのではと、いうことに気付き始めていた。ここ二、三カ月の行動を振り返ってみると、やっぱり、なるほどと、自分で自分に納得出来ることが多々あった。
 哲也とは時折り食事に行ったりしていたが、何かかみ合わないものがあり、ぎくしゃくした関係が続いていた。ある土曜日、美咲は大学時代の親友で、商社に勤めている麻紀と久し振りに会った。哲也の中に、麻紀の影がまとわりつき、如何しても確かめておきたかったのであった。
「前から気になってたんだけど、哲也とつきあってる?」
 美咲ははっきり言った。
 一瞬戸惑ったが、麻紀も遠慮なく言った。
「やっぱり知ってたんだ。哲也たら何度もしつこく電話をかけてきてね。それでつい……」
 美咲はすでに二人の関係には気づいていたので、大したショックはなかったが、虚しさは体を巡り、突き抜けた。麻紀と別れた後、一人で宛てもなく歩き回り、気がつけばサマージャンボ宝くじ販売の列に並んでいた。
 不意に、どちらからともなく「当たる」と、美咲にささやく声が聞こえた。振り向けば夕陽を背に、銀杏の大木が悠然と立ち、美咲を見下ろしていた。
「買わなければ」と、何かに突き動かされるように、ありったけの三万六千円で生まれて初めて宝くじを買ったのであった。
 虚しさと喧騒から逃れるように家に帰り、自分の部屋に入った。どっと疲れが押し寄せ、ベッドに倒れ込んで、そのまま寝入ってしまった。
「この三千万円は、君との手切れ金だ」
 哲也が札束を前に、美咲を見つめながら言った。そして、ドアを開けて出て行った。
 開けっぱなしのドアから、冷たい風が吹き込んできた。美咲はようやく目が覚めた。朝の四時前であった。
「夢か……」
 哲也の無表情な顔が甦ってきたが、何故か気持ちは爽やかで、落ち着いていた。そっと一階に下り、シャワーを浴びた。
 六時を過ぎると、母が起きてきた。何げない日常が始まり、美咲はいつもと変わらない多忙な仕事に、没頭していった。
 ようやく暑さも峠を越えた頃、夕刊にサマージャンボ宝くじの当選番号が載った。
「まさか……」
 美咲は小さな新聞の数字と、手に持った一枚の宝くじを何度も見比べていた。
 三等 三千万円! 間違いはなかった。
 やがて美咲は数カ月後、会社を辞めた。そして、久しぶりに東北へ旅に出た。家族にも友人にも三千万円のことは打明けず、一冊の通帳と小さな旅行鞄の、さりげない旅立ちであった。
 そして、いつの間にか十年の歳月が経っていた。
 そこには、白い装束に身を包んだ美咲が、朝靄にけむる小さなお堂の中で、静かに経を唱える姿があった。美咲の顔には、すべてを卓越した微笑みさえ、浮かんでいるのであった。
 やがて経を終えた美咲は、本堂に向かって石の階段を上り始めた。標高八百メートルにあるこの寺の眼下には、低い連山が幾重にも連なり、そのふもとにはのどかな田園地帯が広がっていた。目を上げれば岩木山が遥かにそびえ立ち、その悠然とした姿に美咲はいつも圧倒され、勇気をもらうのであった。階段を上がりながら、野鳥の鳴き声に耳を傾け、ふと足を止めた。爽やかな若葉の葉音と共に、今日も明日の自分を予言する一筋の光に、暫く身を任せた。
 十年前、青森空港に降り立って以来、何の抵抗もなく、この東北の住民となった自分を美咲自身今、改めて振り返ってみた。
 あの時、空港から偶然乗った観光タクシーは、美咲を東北に招き入れる遣いのようであった。弘前を始めとして数時間、美咲を夢のような世界に誘ってくれた。丁度季節は秋、真っ赤に色づいた林檎畑が岩木山を背に延々と続き、美咲にとってはまるで別世界に踏み込んだ様であった。東京での二十七年間は一体何であったのか。あの時、悠然とそびえる岩木山を目の前に、美咲は混乱していた。
「ここに骨をうずめよ!」
 そんな囁きが、夕陽の向こうから聞こえた気がした。やがてタクシーの運転手は美咲をある旅館に案内した。それは、まさに今の美咲の運命を決定する出会いでもあった。
「ようこそ」と、笑顔で迎えた女主人に、美咲は金縛りにあったような戦慄が体を突き抜け、動くことが出来なかった。あの時、あの瞬間こそが、未来予言の神の教祖との出会いであった。
「私の未来がここにある」美咲は確信した。そして、その旅館に住み込みながら、女主人の所作を会得し、自分を磨いていった。いつの間にか、五年の年月が経っていた。ある日女主人は美咲に言った。
「あの三千万円を使う時がきましたね」
 一瞬たじろいだが、美咲は平然と鞄の底から一冊の通帳を出し、彼女に手渡した。すべては教祖の手に委ねられていたのだ。時折り聞こえたあの囁きも、教祖の声であったと、美咲は雲が晴れて行くような爽やかな境地を味わうのであった。
 やがて、山の中腹に古寺を改装した尼寺が完成し、住職に美礼院と名前を変えた美咲が納まったのであった。
「未来を予言する尼さん」として、暫くすると評判になった。ある日、東京から一人の女性が訪ねてきた。
「夫に女がいるらしいのですが、別れたほうがいいのでしょうか」
 美礼院は静かに、そして確信を込めて、「別れるべきです」と、言った。
 麻紀との久し振りの出会いであった。

橋本都紀子

橋本 都紀子

1949年生まれ

書き続ける理由

何気ない日常の中で、その時、その瞬間に感じた些細な事を記憶の中に留めておきたいから。

趣味

旅行。山歩き。日本画。読書。

大切にしている言葉

日々の積み重ねが明日に繋がる。

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