創るcollaboration 第一回コラボレーション企画
016

伸るか反るか

田村 みさき



 けたたましい目覚まし時計のアラーム音を消そうと伸ばした遼平(りょうへい)の手に、ぶにょっとした生き物の体温が伝わってきた。眠気が吹き飛ぶ。身体を捩(よじ)って見ると、蝙蝠(こうもり)のような黒い小さな塊が座しているのが目に入った。
「おはようございます、ご主人さま」
 蝙蝠は遼平に恭(うやうや)しく辞儀をする。喋る蝙蝠を前に遼平が叫ばなかったのは、目の前の光景が非現実的すぎて絶句したからだ。
 食パンと珈琲の朝食を摂る遼平に、自らをストックと名乗った蝙蝠は、淡々と説明を施した。遼平は株に関して全能(オールマイティ)な、株価の神さまになったらしい。胡散臭い話だった。
「信じられませんか? すぐに判りますよ」
 この妙な生き物は他人には見えないらしい。出社した遼平の肩に乗っているストックについて指摘する者はなかった。
 平成証券に入社して三年めの遼平は、資金を増やしたい顧客と契約をし、助言をするFA(ファイナンシャルアドバイザー)の仕事に就いていた。しかし口下手で上得意を先輩に奪われ、成績は芳しくない。都会に残りたくて就職活動をし、唯一内定を貰ったから入社しただけのことで、もとから愛社精神などない。転職を考えていた矢先だった。
 朝食時の日課である経済ニュースの斜め読みができないまま始業に就く。早速、顧客のひとりから電話を受けた遼平は、証券市場のチェックをしようとパソコン画面を覗き込み驚いた。一部の株銘柄が輝いているのだ。半信半疑ながら、遼平は光った株を勧めた。
 その日、遼平がアドバイスした株は、悉(ことごと)くストップ高※1※を更新した。注目銘柄に買い注文が相次ぎ、値幅いっぱいまで値上がりしたのだ。
 夜、家で独り呑むビールは美味(うま)かった。書きかけの退職願を破っていた遼平は、ふと手を止める。左手首に小さな赤い痣ができていた。
「それは神さまの証です」
 ストックが口許を隠して笑ったが、遼平はその様子を意に介さずしげしげと痣を眺めた。
 翌日から遼平は能力をフルに使った。担当の顧客から喜ばれ、新たな投資信託の契約も入る。顧客の笑顔を見ることは遼平の欣快(きんかい)の至りであり、仕事にも気合がこもる。少し前まで転職を考えていたなんて信じられない。
「インサイダーでも、やってんのか?」
 会社近くの定食屋で昼食を摂っていた遼平の向かいに腰をおろしながら、野瀬(のせ)が声をかけてきた。しまった、見つかった。野瀬が茶を飲む隙に、遼平は急いで飯をかきこむ。
 七歳年上の先輩FAである野瀬は金の臭いに敏感で、上得意となる人間なら同僚の客でも掠め取るハイエナのような人間だった。遼平の大躍進を怪しんでいる様子である。
 慌てて否定のことばを探すあいだに、野瀬は早くも飯を食い終わると席を立った。手に持った競馬新聞で遼平の肩を軽く叩きながら
「ごちそうさま。俺のお代も頼むわ」
 と言うと、早足で立ち去った。
 残された遼平は「またたかられた」とひとりごちる。米は屈辱の味がした。


 半年の年月が経過した。
 遼平は課内でトップの営業成績を維持していた。羨望と尊敬の視線が晴れがましい。
 肩にいる相棒の存在も気にならなくなった。ストックは殆ど語らない。空気と同じである。
 遼平の成績アップの秘密を探ろうと、野瀬が暫(しば)し執拗に付き纏(まと)ったが、秘訣を把握するに至らなかったようだ。その鬱憤(うっぷん)晴らしのように、野瀬の嫌がらせが激増した。
 どうやって知るのか、遼平の外回り先でも昼食時に野瀬が店に出没し、食い逃げする。
 デスクの文房具が紛失することも相次いだ。犯人は野瀬だろう。消しゴムやボールペンなど少額の被害なので詰問するのも大人げない。
 以前の野瀬は勤勉な男であった。配属されたばかりの遼平の指導役(チューター)に就いた野瀬は面倒見もよく親切で、後輩や同僚に慕われていた。
 遼平もその一人だった。野瀬の指導は厳しかったが、実際に顧客と面談をする際には、横で幾度も遼平に助け船を出してくれた。野瀬のようになりたいと遼平は敬慕していた。
 そんな野瀬が豹変(ひょうへん)したのは一年前からだ。顧客に誘われて始めた競馬に耽溺(たんでき)し、給料の大半を注ぎ込んだ。そして実績給を上げる為に汚い手を使い始めるようになり、同僚たちの気持ちは徐々に野瀬から離れていった。
 野瀬に嫌がらせを受けても、遼平は野瀬が立ち直ることを切望していた。瞼を閉じると、誠実だった野瀬の優しい笑顔がいまも浮かぶ。
 米粒大であった手首の痣は五百円玉大に拡がり、赤から次第に黒ずんできている。
 痣が目に入ると遼平は自省する。成績トップは遼平の努力の結果ではなく、降って湧いた僥倖(ぎょうこう)に過ぎないのだ。いつかしっぺ返しを食らうだろう。勝利の美酒に酔いしれるほど、遼平は肝が据(す)わっていなかった。
 ある日の昼下がりに野瀬を指名する電話を取った遼平は、懐かしい声を耳にした。
「多田(ただ)と申します。野瀬さんお願いします」
 多田公江(きみえ)だ。公江は遼平の得意客だったが、いつとなく野瀬に掠め取られていたのだ。
 野瀬の休みを告げ、遼平が名乗ると、受話器の向こうで追想に耽(ふけ)る気配が伝わってくる。 「野瀬さんには言いにくかったんだけど、杉本(すぎもと)さんには、訊いていいかしら……」
 躊躇(ちゅうちょ)しつつ公江が告げた内容は、捨て置けないことであった。
 野瀬が公江に勧めていたのは、売り買いの取引数を増やす回転商い※2※だ。発覚すると会社自体の信用を損ねるので、平成証券では禁じていた。遼平は電話を切ると上司に報告し、公江宅に謝罪に向かった。
 翌日出社した野瀬が、上司に手招きされ別室に入るのを、遼平は沈鬱な顔で見守る。二人はなかなか出てこなかった。
 野瀬は月末に依願退職した。送別会は開かれなかった。蹌踉(そうろう)と去る野瀬の丸まった背中に、遼平は渋面を作る。自分の密告で野瀬は辞職に追い込まれたのだ。あと味が悪かった。
 己を鼓舞するよう仕事に励む遼平を、胸の疼痛(とうつう)が襲った。人事不省に陥り医務室で目覚めた遼平は、手首を見る。痣の一部が薄れ、そこに「伍(五)」の文字が浮き出ていた。
「無償で能力が手に入るなんて、できすぎた話でしょう? 生命と引き換えなのですよ。五というのは、能力が発揮できる残数です」
 枕許でストックが淡々と説く。
「零になったら?」
「タイムオーバー。昇天です」
 冗談じゃないと毒づき、遼平は口走った。
「神さまの権利を返上できないか?」


 孫苗(ランナー)の根茎に鋏を入れた遼平は、肩にかけたタオルで額の汗を拭うと腰を伸ばした。ハウスのビニール越しに蒼穹(そうきゅう)が見て取れる。
 会社を辞めて一年を数えた。遼平は実家でいちご農園の手伝いをしている。幼いころから収穫に駆り出される日常を送った遼平の腕は、都会暮らしの数年程度では鈍らなかった。
 胸の痛みはあれ以降、一度もない。至って健康だ。あの日、神さまのリタイヤを申し出た遼平に対し、ストックはすんなり受諾した。
「私腹を肥やすために能力を使っていたら、私もあっさりとは肯(がん)んじ得ないんですが」
 そこで須臾(しゅゆ)、口を噤(つぐ)んだストックは、遼平の左手首に小さな黒い顔を寄せる。
「ご主人さまは顧客に使いましたからね」
 再びストックが手首から離れると、痣は跡形もなく消え失せていた。  神さまを放棄した遼平は、次の日に会社に退職願を提出すると、その足で故郷に戻った。
 今冬は初めて自分が育てた苗で栽培する。口許が緩むのを抑えられない。伸るか反るかの大勝負は、いちご農園ですればよいのだ。
 週末、肥料を買いに街へ出た遼平は、公会堂の入り口に懐かしい名前を見つけた。セミナー会場に入ったのは、自分が失墜させた先輩が活躍する姿を見て安心したいためだった。
 壇上の野瀬には、自信が漲(みなぎ)っていた。リテール※3※窓口のころより恰幅(かっぷく)がよく、むくんだ赤黒い顔にてらてらと脂が光る。
 デイ・トレーダーの肩書を掲げた野瀬は、先月一箇月で株により十億を儲(もう)けた武勇伝を披露していた。半年前に結婚をし、妻は先日めでたく懐妊したという惚気(のろけ)も加わっている。
 嘗(かつ)ての先輩の雄姿を見届け、帰ろうとした遼平の目が、野瀬の手首に釘付けになった。そこにできた痣には、弐(二)の文字が読めた。カウントダウンが終焉を迎えようとしている。
 遼平は野瀬の肩を見た。なにもない。契約を解除した遼平には見ることは叶わないが、そこには確かに、黒い蝙蝠が乗っているのだ。
 あの日、背を向けて痣を消すストックに細長い槍状の尻尾があるのを遼平は目にした。
「私も今回は学習させてもらいました。次のターゲットとの契約は、必ずものにしますよ。私だって営業成績は大事ですからね」
 耳まで裂けた口でストックが笑う。ストックが表情を出したのは、この一度きりだった。
 ストックが遼平のことを一度も「神さま」と呼ばなかった理由が判った。ストックにとっての遼平は、神ではなく顧客だったのだ。
 悪魔の陥穽(かんせい)にはまっていることを、野瀬は知っているのか。気づかわしげにステージを見上げた遼平と、スピーチを終えた野瀬の視線が交差した。遼平の存在を認めた野瀬は、不敵な笑みを投げて寄こすと舞台袖に消える。その目に怯懦(きょうだ)の色はなかった。能力の代償を知らされていないことを遼平は確信する。
 遼平は瞼を閉じた。昔日の、物柔らかな野瀬の笑顔を思い起こし、大きく息を吸う。
 野瀬を見殺しにはできない。信じてもらえなくても真実を伝えよう。
 遼平は楽屋に向かいゆっくりと歩を進めた。




【本文注釈】
※1※ ストップ高……株価の一日における変動の限度幅まで株価があがること。
※2※ 回転商い……投資家に買わせた銘柄を売却し、次々に他の銘柄に乗り換えさせること。売り買いの取引数を増やすことで取引(売買)手数料が入って来るが、過当取引に批判が高まり、バブル崩壊後は証券業界では認められなくなっている。
※3※ リテール……個人を対象とした金融業務のこと。個人の株式、債券、投資信託等の売買。

田村みさき

田村 みさき

1971年生まれ

書き続ける理由

私は物事を筋道立てて説明するのが苦手です。理路整然とした文章を書けるようになりたくて、教室に通い始めました。教室では毎回、異なるテーマで課題が出されるので、すごく刺激になっております。

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