001
《エッセイ》
書くことは "考えること、生きること"
一九三二年(昭和七年)一月二日、私は神戸市で生まれました。今年八十二歳です。
一九三七年に日中戦争が、一九四一年に太平洋戦争が始まりました。終戦を迎えたのは一九四五年でした。
小学校(当時は国民学校)六年間と女学校(今の中学校)の二年生までの八年間を、私は戦時下で過ごしたのです。
殊に終戦前の二年間は、町中(まちなか)で思わず息を呑むような悲惨な光景を見ました。
終戦の前年のことです。
大通りを歩いていると向こう側の道をトラックが来ます。ふと荷台を見てうっと息を呑みました。
蒸し焼きになったような人間が、さまざまポーズで無造作に積まれているのです。死の瞬間の姿なのでしょう。シート一枚がなぜ被せられなかったのでしょう。
私はこの光景を誰にも話せませんでした。
ただ鮮明な映像として、脳裏に焼きついています。
終戦の年の三月、米軍の大空襲により、神戸市の半分が焼き尽くされました。それまでにも百回を越える空襲を受けましたが、三月のそれは、爆撃機九百機がいっせいに焼夷弾を落としたのです。
わが家は焼失し、私たち家族は逃げ回り、命の危険を感じました。火に追われて逃げながら、空を見上げて『きれいやなあ、花火みたい』と呟いた自分の声を、今でもはっきり覚えています。
私は二十二歳で会社員と結婚し、五年目と九年目にそれぞれ男児を授かりました。次男が学齢に達するまで、家事に専念しました。結構充実した日々でした。
子育てに手がかからなくなった私は、小学校のPTA活動の中の俳句サークルに参加しました。
春の一日、俳句仲間の親睦を兼ねた吟行(ぎんこう)に十人で丹波へ出かけました。
田んぼの間の道を歩いていると "本州で標高が最も低い場所にある分水嶺" と書いた立札があり、五十糎(せんち)四方程の厚い木の蓋があります。開けてみると、中央の一線を境に、南北方向へ水が盛り上がり勢いよく流れています。
一人が「へえー」と声をあげ、他のみんなは息を呑んで黙ったままでした。
自然の底知れぬ大きさが胸を突き、私も体の芯が震えるような衝撃を受けました。
そっと蓋を閉めると、すぐそばにはこべが花をつけています。野に咲く白い小さな花がなんともりりしく感じました。
それから三十六年が経ち、七十六歳の時、松尾成美先生の『話すように書く文章教室』に通い始めました。
何度目かに提出した作品に対して
「よくぞここまで書いてくれました」という評をいただきました。目が覚める思いでした。
『折々の課題にそって脳裡から映像を取り出し、深く考えてゆく』
それが書くことなのだと悟りました。
書き続けていく延長線上に、私の死生観がはっきりとしてきました。
もう間近に迫っているであろう "死" を、どんな形であろうと平静に受け入れられる心境になりました。
書くことは考えること、そして生きることだと思っています。
|