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小川 瑛子

小川 瑛子
1941年生まれ

012

《エッセイ》

文字は踊る

 大阪の東南部にある『平野(ひらの)』は中世から綿作で栄え、環濠集落で自治都市としての誇りも高い下町だ。
 いびつな南瓜型の地域を濠(ほり)で囲んだ跡が残り、十三ヶ所の出入口に安全を託したお地蔵さんがおられる。中二階に明かり取りの『虫籠窓(むしこまど)』のある古い町屋周辺に『綿屋(わたや)』の看板が二、三枚ある。

 私は昭和十六年にこの町に生まれた。
 何故この町が『ヒラノ』なのか、昔は広々とした平野(へいや)だったからなのかと、何となく思っていた。が、大人になり蝦夷征伐で有名な坂上田村麻呂の息子広野(ひろの)麻呂がこの地を治めた事に由来すると古老から教わり納得。
 結婚後もここで子供達を出産し育てた。彼等に幼稚園の頃から本の読み聞かせをしたが、とても喜ぶので『自分の書いたものを読んでほしい』という思いが湧いてきた。
 ローカルな児童文学サークルに入り、数年後、仲間との短編集も出版された。子供達も声に出して読んでくれた。
「どう?」と聞くと「まあ、おもしろいかな」が答えだった。
 が、母の胃癌の手術の入退院の繰り返しで中断し、二十年間文字を書く事から遠ざかっていた。

 ところが
「思いを書き尽くしたい」という事が起こった。
娘の大学合格にと約束して飼っていたラブラドールレトリーバーの愛犬アトムの死が火をつけたのだ。
 全ての者に優しいアトムとの別れは、それはそれは辛かった。思い出にすぐ涙する。胸から青い火が立ち上(のぼ)り、涙とまざる様だった。ありったけの気持ちを文字で吐き出した。そして夫の撮った数々の写真との合作が出来、自費出版した。

 これがきっかけで文字を書くという感触が甦り、現在、松尾成美先生の『話す様に書く』教室に入れてもらって約二年が経った。
 テーマはフィクションとエッセイが交互で課題として出され、原稿用紙三枚という長さの難しさを痛感した。仲間たちの意表をつく作品にも驚くことしきりだ。自分だけが解かっていて、読者には理解出来ない『エッセイの落とし穴』という先生の絶妙な言いまわしに感心した。

 スタート当時、私にはフィクションのハードルが高く悪戦苦闘だった。だが時が経つにつれ、思い切り飛躍出来、夢を膨らませ嘘をつけるフィクションが楽しくなってきている。
 今は書く事が何より楽しい。だが、書くには判らない、知らない事だらけで、辞書、インターネット、図書館の助けがないとお手上げだ。
 根気強く物事をやり遂げた事のない私は『書く事だけは出来たら死ぬ(?)迄続けよう』と思っている。
『書き溜めたものは種(たね)だから、様々に形を変えて公募にも挑戦してね』と先生に励まされる。よし! 落ちてもめげず積極的に応募していこう。





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