兎のダンス
中山 のり子
講堂の舞台で兎のダンスが始まった。
♪ソソラソラソラ兎のダンス……♪
十人余りの女の子が、長い耳を頭につけて楽しげに踊っている。一人、うつむき勝に消え入りたげに踊っている。それが私だった。
『みんな子供らしい服装なのに、私だけがテカテカ光るサテン地で、胸元にいっぱいギャザーのあるワンピース。みんなと一緒がよかったのに』
昭和十三年の秋、私が小学校二年生の時の学芸会でのことだった。
父は前年に始まった日中戦争に応召され、祖母と母と三歳の妹と私の四人暮らしだった。
母が洋裁を習ったのは結婚してからだった。元気でやさしく、おおらかな祖母がいたから出来たことだろう。
学芸会のことを母に話すと、母は、
「そうや! あの布地でワンピースを作ったげよか」と、タンスの奥から大切そうに持ち出してきた。その布はクリーム色の地に小花を散らしたサテンだった。
『きれいやなあ! ほんでも光って目立つやろな』と思ったが、張り切っている母には何も言えなかった。
出来上がったワンピースを着た私にぐるりとその場で回らせ、
「うーん、上出来!」と言って私の背中をポンと叩き、会心の笑みを浮かべた。(と私は思った)
そういえば、去年の妹とお揃いで作ってくれたワンピースにも裾にたっぷりのフレアーが入っていた。それを着て二人並んだ写真を戦地の父に送った。
とにかく、ギャザーやフレアーの大好きな母だった。
父は、昭和十五年に帰還した。祖母は父の顔を見ずに亡くなった。そして次々に弟が三人生まれた。
やがて太平洋戦争が始まり、ギャザーやフレアーとは縁遠い世の中になった。母は和服をほどいてはモンペの上下を縫っていた。
あのワンピースは一度着たきりで、家ごと空襲で焼けてしまった。
母は全くミシンを踏まなくなり、見様見真似で洋服作りを覚えた私が縫い物は一手に引き受けた。と言っても新しい布地は買えなかったので、手持ちのものを工夫して作った。
中でも傑作はカーテンで作った私のツーピースだ。木綿地に濃いえんじ色の細いストライプ入りのそのワンピースは結構永い間着た。
母の六十五歳の誕生日に、私は手製のツーピースを贈った。
「お姑さんね、あの服、すごく気に入ってるみたい。いつもあれを着て出かけはるんよ。
"これ娘が作ってくれましてん" て、人に会(お)うたら言いはるんよ」と、母と一緒に暮らす弟の嫁が言った。
ふっと、あのワンピースが頭をかすめた。
私って、なんて可愛げのない子だったのだろう。