創るcollaboration 第5回コラボレーション企画
008

人生、四季折々

村瀨 朋子

 大正生まれの祖母 "文子(ふみこ)" は、長年、呉服屋から依頼される着物の仕立てをしていたので、背中がラクダの様に丸く曲がっている。
 現在40代半ばの私だが、私が子供の頃、60才位だった祖母の背中は、既に丸かった。
 昭和の戦後、私の母を含む四人の子供を養うため、祖父は工場に勤め、祖母は家で着物の仕立てをし、生計を立てていたらしい。
 几帳面な性格が、針仕事に向いていたのか、祖母は60才半ばまで、仕立てを続けていた。

 私は幼い頃、山口県の同じ市内に住んでいた、大好きな祖父母の家に、よく遊びに行っていた。
 四畳半の祖母の部屋に入ると、仕立ての途中の着物が長机の上に置いてある。
 子供ながらに、光沢のあるその綺麗な白無垢の花嫁衣装に、触りたくなるのだが
「もの凄く高価な着物じゃから、触ったら、いけんよ」
 と祖母によく言われたものだった。

 私が小学三年の頃、お正月に着る着物と羽織のアンサンブルを、祖母が仕立ててくれた。
 オレンジ色の生地に、赤や白や薄紅色の小さな木瓜(ぼけ)の花柄が、可愛い着物だった。
「よく似合うね!」と言われ、私は上機嫌だ。
 同い年の従姉妹と、4才下の妹にも仕立ててくれたので、女の子三人、その年の三が日は、ずっと着物を着ていた。

 35年も前のお正月は今と違い、三が日は、どこのお店も閉まっていたので、親戚中が祖母の家に集まり、大人数で新年を祝った。
 子供達は、外で "凧揚げ" や "羽根つき" をしたり、家の中では "福笑い" や、百人一首の "坊主めくり" をして遊んだ。
 大人達は、夜遅くまで麻雀(マージャン)をして楽しんでいた。
 みんなの笑い声が、絶えなかった。

 その頃が、祖母の人生の "実りの秋" の時期だったと思う。祖母を中心とした輪が、大きく広がっていた。
 豊かな秋は、しばらく続いたが、時代は巡り、やがて冬へと移行する。

 祖母と長い時間、話すようになったのは、私が成人してからだ。
 私が山口県から大阪に嫁ぎ、子供と実家に帰省する際、もれなく祖母も私の実家に泊まりに来ては、とことんまで話した。
 私は『祖母、文子の一生』と言う本を、書けてしまう位、昔話を何度も聞いた。
 4才の時に母親を亡くし、寂しい幼少期を送った辛さをバネに "自分の家族" を作り、必死に築き上げた人生だ。
 子供から、けむたがられる程の母性を持つ私の性格は、きっと祖母譲りなのだろう。

 去年の十月、96才の大往生で、この世を去った祖母の葬儀は、家族葬だった。
 35年前のお正月の様に、親族だけで、賑やかに少しホッとした雰囲気の中で、執り行われた。
 最後まで生ききった祖母に、私は言いたい。
「おばあちゃん、お疲れ様でした。
 人生の後半戦、ありのままの姿を、私達に見せてくれて、本当に有難うね!」

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